「わたしは、バビロンの王とその国を罰する。」(エレミヤ50章18節)

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今日はエレミヤ50章に入ります。バビロンの裁きの箇所を選びました。どんなに偉大な国でも、高慢になり、横暴になり、神のみ旨から離れた治世をするなら神の裁きに会うのです。今の世界の現状を見る時に、今日のメッセージは私たちに安心と勇気を与えるものと信じています。

まず50章の1節には、「主が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。」とあります。2節には、「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。バビロンは捕らえられた。ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた。」と書かれています。ベルやメロダクはバビロンの人たちが信じた神の名前です。ベルは支配者や征服者の意味を持ち、バビロンの守護神と信じられた神の名です。メロダクとはベルの別名で、神々の中でも最高位の神として崇められていたようです。征服者と呼ばれた偶像の神は真の神によって裁かるのです。そのプロセスとして、こう語ります。3節で、「なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。一つの国とはペルシャ帝国のことで、バビロンはペルシャによって滅ぼされることとなります。バビロンはその神々と共に、ペルシャによって滅ぼされ、その偶像の神々は砕かれ、はずかしめられると言うのです。

バビロンが滅ぼされると言う事は、ユダヤの民にとって解放のメッセージとなります。4節には、「その日、その時、主の御告げ。イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を尋ね求める。」とあります。泣きながらとは、悔い改めの涙を流すことです。自分たちの犯した罪のために、今彼らはバビロンの地で捕囚とされて生きています。そして約70年後に解放されるとの希望を持って歩んでいるのです。今までの苦しみを覚えながら、自分や先祖の犯した罪の代価を背負いながら、彼らは悔い改めの涙を流すのです。そしてもう一度、その神、主を尋ね求めるのです。5節には、「彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう。』と言うと書かれています。バビロンからの解放は、彼らに希望を与えます。そして、その時忘れられることのないとこしえの契約によって主に連なろうと彼らは言うのです。今まで学んできたように、ユダヤの民のために新たな契約、とこしえの契約を神は用意しておられるのです。これは救い主イエスの誕生によってもたらされていくものですが、その希望を持って主に連なろうと彼らは語ると言うのです。

6節には、「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。」とあります。わたしの民とはもちろんユダヤの民です。迷った羊のように、神から離れた指導者たちが、民を山々へ連れて行き、そこにまつられている偶像を何度となく拝み、迷いの道に陥り、休み場と表現されている誠の神への礼拝、安息を忘れてしまったと言うのです。7節では、「彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に罪を犯したためだ。』と言った。」とあります。確かにユダヤの民が神を忘れて、自己中心になって歩んだが故に、エルサレムの崩壊が起こった事は事実です。バビロンの民は、一時的に神に用いられただけに過ぎないのです。しかしながらこの7節は、自分たちが侵略行為を続けながら多くの国々に危害を加えてきた、そのことを正当化するような表現と理解できます。知らず知らずに高慢になっていくバビロンの人たちの思いがこの文面には隠されています。50章の中にはバビロンが裁かれる理由がいくつか書かれていますが、何よりも彼らが高慢になっていく。そのことが一番の理由としてあげられます。彼らの高慢のゆえにバビロンの裁きや崩壊が起こるのです。

8節で、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。群の先頭に立つやぎのようになれ。」とあります。ユダヤの民に向かってバビロンから去ることを考えなさいとのユニークな表現です。やぎと同様に、群れを導くために先頭に立つリーダーが必要となります。

このバビロンの崩壊は、神のご計画であり、高慢になったバビロンへの神の復讐の技です。15節には、「その回りに、ときの声をあげよ。彼女は降伏した。その柱は倒れ、その城壁はこわされた。これこそ主の復讐だ。彼女に復讐せよ。彼女がしたとおりに、これにせよ。」とあります。かつて神の民であったユダの王国を滅ぼした者たちは、主の怒りをかい、その町も、また城壁も壊されるのです。自分たちがしたように自分たちも報復を受ける。これこそ主の復讐だとあります。ガラテヤ6章の7節には、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるようなかたではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。

バビロンが裁かれる、それは神の御心であることに触れました。神様は歴史を支配しておられる方です。北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、そして南ユダがバビロンに滅ぼされ、人々が捕囚とされた、これは神のご計画の一部です。それは同じようにバビロンの国も神の裁きの対象であると言うことです。17節と18節には、バビロンが滅ぼされていくことが書かれています。そこには、「わたしは、・・バビロンの王とその国を罰する。」とあります。バビロンが裁かれる日、それはユダヤの民の解放の日です。そして、「イスラエルの咎も、ユダの罪も見つけることができない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」とあるのです。解放の日、それはユダヤの民にとって罪ゆるされて者として、全くの新しい出発となるのです。

それではバビロンが裁かれた理由は何でしょうか?もう一度確認しますが、それは彼らの高慢の罪のためです。29節の後半に、「そのしわざに応じてこれに報い、これがしたとおりに、これにせよ。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」とあります。高ぶると言う言葉が何度か繰り返されています。31節でも、「高ぶる者よ。見よ。私はあなたを責める。・・あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ。」とあります。32節にも、「そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、」とあります。高ぶる、そして弱い者の心を忘れてしまう。自己中心な生き方を歩む。このような人々を神は裁かれるのです。歴史の中で私たちはその事実に確かに触れます。アッシリアも、バビロンも、またローマも高慢になって、神の裁きにあったのです。私たちはそのことを謙遜になって受け取る必要があります。歴史から学ぶ、同様に旧約聖書の教えから学ぶ、それが知恵ある者の生き方です。バビロンが裁かれる、それはバビロンによって虐待されてきた人たちが解放される、そのような時です。そしてそれは神の大きなご計画の中でなされた、これがエレミヤが伝えるメッセージです。

33節と34節には、万軍の主はこう仰せられる。「イスラエルの民とユダの民は、共にしいたげられている。彼らをとりこにした者がみな、彼らを捕えて解放しようとはしない。彼らを贖う方が強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」とあります。実はイスラエルを贖う方の御心によって裁きと回復が起こるのです。私たちを贖う方は強いお方。そのメッセージを受け取って、贖う方の前に常に謙遜な歩みをなす者でありたいと思います。

バビロンが滅ぼされる、それはエレミヤだけのメッセージではありません。イザヤも同様なメッセージを語っています。イザヤ13章の4節からですが、バビロンがちょうどサタンの姿に類似して描かれています。バビロンが滅ぼされる。それはサタンが滅ぼされる、そのメッセージと捉えることができます。ですから黙示録の中でも大バビロンの滅亡の預言が17章に出てきます。当時迫害されていた初代のクリスチャン達が、大バビロンが滅ぼされると言うそのメッセージをどのような心で聞いたことかと想像します。ローマも、何人もの皇帝が自分は神だと主張し、皇帝礼拝を人々に強要していたのです。そのようなローマも滅んだのです。それは、神の大きな勝利であり、それは神の子キリストの勝利でもあります。大バビロンが滅ぼされると言うこと、それは神の勝利にほかなりません。

現代の社会を見るときに、同じような裁きのメッセージが独裁の国々に向けて語られていると受け取ることができると思います。どんなに偉大なリーダーでも、神から離れ、他者を迫害し、自分の栄誉を求めて行く、その時神の裁きが臨むことを忘れてはいけないと思います。私たちも上に立つ為政者が、神を愛し、民を愛して、み旨にかなった政策を行なうことができるように祈って行きましょう。

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